宮城県の水道民営化問題

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3.11現場の事実×心の真実 「それでも、下水は止められない。」 ~東日本大震災・南蒲生浄化センターの知られざる闘い~

東日本大震災を経験していても、比較的被害が軽微だった仙台市の内陸部に住む私は、この圧倒的事実と真実を今に至るまで知りませんでした。

南蒲生浄化センター

3.11の夜、避難していた中学校の水道が止まり、その後、私たちの住む地域でも水道が復旧するのに1週間ぐらいはかかったのですが、その際にも、正直自分たちが流した下水が最終的にどうなるのかということにまでは思いが至っていませんでした。

都市部で暮らしていると、生活に必要なインフラが順調に機能するのが当たり前になってしまい、そういったシステムの維持構築に尽力してくれている人々の尊さに気づかぬまま過ごしてしまいがちです。

み

けれども、この区域図を見ると、明らかに私は、南蒲生浄化センターのお世話になっています。

東日本大震災当日、1日に30万トンの下水が流れ込む全国最大規模の南蒲生浄化センターは、10.4mの津波に襲われ、電源を失って機能を停止。処理しきれない汚水が仙台市内にあふれ出す危険性がありました。

それを防ぐため、流れてくる下水の海への放流ルートを確保する必要があったのですが、津波の破壊力の下では、停電時に自動で開放される緊急放流ゲートが正常に作動しているか定かではありませんでした。

そこで、現場の職員たちは、避難していた管理棟からかなり離れた海側にある長年使われていない旧第五ゲートを目指すことを決意します。

余震が続きいつまた津波に襲われるかもしれない中、瓦礫をよけながらやっと辿り着くと、100回転で1cm開く重いハンドルを手動で回し続け、5cmまで開けることができました。

放流ゲート手動ハンドル

旧第五ゲートのゲート開閉機は、この写真のものとほぼ同じ大きさで同じ仕組みですが、ハンドル部分はこれよりも小さく、長年使用していなかったためさびて硬くなっていたそうです。

3月17日には開閉不能になっていた緊急放流ゲートを重機で撤去し、放流ルートが確保されました。しかし、大量の下水をそのまま海に流すわけにはいきません。

施設再建までの長い年月、問題山積でも仮設で下水を処理していかなければならないのです。

それでも、

① 非常時の協定を結んでいた業者に、沈殿池の瓦礫と汚泥を除去してもらう。

② 手を尽くして資材をかき集め、投入方法も、経過観察もすべて手探りで、固形塩素消毒を始める。

③ 電気がないので、沈殿池の汚泥を引き抜くため、24時間体制で約10か月間、夏の暑さや冬の寒さに耐えながら、72か所のバルブを手動で職員が操作し続けた。

④ 1日150t発生する汚泥の受け入れ業者がなかなか見つからず、毎日50tを場内に溜め続けた。そのせいで苦情が来るほどのひどい悪臭が発生し、口を開けられないくらいハエも大量発生するが、あらゆる対策を試し、結果、セメント系を混ぜて貯留することになる。

という途方もないプロセスを乗り越えた職員の方は、

「長年浄化センターを運転してきて、この機械はここを開ければこうなるとか、みんな知っていた。みんなが長年培ってきた知恵と経験がものを言ったんじゃないですかね。」

と語っています。

コンピュータ制御が究極的に機能しなくなった時、頼りになるのはやはり、その施設で日々働いてきた人々です。 

 「(水質を知る)情報源は、色とか濃度とかにおいとか、数値化できないものが多い。人間の勘が必要になる。」

という職員さんの言葉もあります。

それにしても、紹介されている職員さんたちの言葉の数々には、こちらの心が清められるような人としての美しさがあります。

 「少しずつでも水質が改善したり、作業が少なくなったり、処理が安定していく。そこに向かって前向きに仕事をすることができた。」

 「きちんと処理できるまで何ケ月もかかったんですけど、だんだん綺麗になっていく水を見て、毎日が感動でした。」

 仕事への愛が語らせる言葉ですね。 

仙台市民の下水を処理しているというよりも、海をいかに汚さないようにするかを、いつも考えていますね。」

ここまでくると、もう感謝のあまり手を合わせたくなるくらいです。

こういった現場で長年頑張ってくださっている水道職員の方々こそ、決して失いたくない私たち市民の宝です。

今回、この企画展を実現してくださった「せんだい3.11メモリアル交流館」のスタッフの方々、本当にありがとうございました!!

もっともっと多くの人に、そして後世の人にもこのことを知ってもらいたいです。

ぜひ今回の内容を広く視聴できるようにネットでのアーカイブ化をお願いいたします。