宮城県の水道民営化問題

命の水を守るため、水道の情報公開を求めていきましょう!

このままでは「みやぎ型」がどんどん進められて いってしまう! ホントにこれでいいの?     「Dialogue 水は誰のものか?」を視聴して、水道というみんなのものに大切な視点を確認しました。

みやぎ型開始までのスケジュール

    令和2年9月9日「みやぎ型管理運営方式」に関する事業説明会資料より

 

2020年9月20日、D2021 企画 Vol.3「 Dialogue 水は誰のものか?」がライブ配信されました。

 

対話者たちの発言の抜粋要約

 

岸本聡子さん(トランスナショナル研究所)

水の問題は、科学的、政治的、経済的、文化的ないろいろなことが関わってくる。

貧しい国だけの問題ではなくなってきている。

たとえばアメリカでは、近年、1500万人の人たちが、水道料金が払えないということを理由に水道接続を切られている。  

水が商品化されたり、そこから利益を上げようとする社会というのは、おそらくすべてのものから利益を上げている社会じゃないか。

水は、すべての人と生物にとって必要なもので、国連で 定められた人権でもある。

それを市場原理だとか、儲けの原理で運営していったら どうなるのか?

 

「水道民営化」は「民主化」なのか?

           「 Dialogue 水は誰のものか?」より

 

岸本聡子さん(トランスナショナル研究所)

「民」という文字がすごく混乱する部分があって、これどちらかと言うと「私」に直したほうがいいんじゃないか。私営化と言ってもいいかなと思う。

日本は、官とか公のイメージが、自分たちから離れたところで、お役所が決めてくれたりやってくれるというような強い事実とイメージがある。

私たちが選んだ代表者が関わる公に対して、私たちがそこに情報を取りに行く、アクセスする権利があるとか、その人たちには説明しなければならない責任があるといったことをあんまり教えられていない。

私企業にはそれは全くないので、所有が公から私に移ると、私たちは自動的に、情報を得る権利や説明される権利を失う。

 

水道、再び公営化!           

           「 Dialogue 水は誰のものか?」より

なぜ日本が水道を売らなきゃいけないのか?

そもそも日本の水道は世界に誇る水道で、日本の漏水率は世界で一番低い。平均5% とか信じられないような数値を出している。ヨーロッパでは25%とか30%の水が漏れている。日本はそれで98%の普及率を誇り、みんなが飲めるという水を、なんでわざわざ企業に売らなきゃいけないのか?

水道管路の更新時期が来ていてお金がかかる。そのお金を自治体は払えない。コスト削減が必要。水道現場で働く人は今どんどん減っている、というより減らされている。

そういう中で、企業にお任せしたほうが効率化が起こり、イノベーションが起こりやすく、水道事業が持続可能になるというストーリーで、おとぎ話みたいに聞こえるけど、それを信じている人たちは、国会の中にもメディアにもたくさんいて、そういうことがやりたい企業群がひしめいている。日本の水道市場に参入したいという企業は、日本でも世界でも沢山ある。それらが一致してそれを可能にする水道法改正になったと思う。

 

斎藤幸平さん(経済思想家)

行き詰ってるんですよね。パリとかイギリスとかでも失敗しちゃって、パリの水道会社困ってて、どうすっぺみたいになってるんですね。それで、「おー、そこにいいのあるじゃん」みたいな感じで、周回遅れで日本が狙われている。

で、日本人は、今ある水道システムに慣れ切っちゃってるので、「ちょっと変わったって大丈夫でしょう」という緩みが非常にありますよね。そういうところにどんどん入ってこようとする。

私有化の問題点というのは、元々はみんなのものなんですね。みんながアクセスできるし、みんな平等に使う。なんでそうかっていうと、みんな生活に必要だから。僕の言葉を使うと、潤沢にある。豊かにある。でもそれだと誰もお金払わない。

で、どうするかっていうと、市場はそれを囲い込む。ほんとはみんなにとって必要なものなんだけど、それを特定の人しかアクセスできない、「これ俺のもんだ」と囲い込んでしまう。

そうすると、多くの人たちは、今までと同じ水にアクセスするために、今度は、お金を払わなきゃいけなくなってしまう。多くの人達にとっては、囲い込みのせいで豊かさが壊されて、希少性が生まれてしまう。アクセスできない。貧しさが生まれてしまう。欠乏が生まれてしまう。資本主義というのは欠乏を生み出すことによって価値を増やしていく。

私たちは、資本主義ってどんどんいろんなものを作って、どんどん私たちを豊かにしてくれると考えるけれど、価格を吊り上げたりとか、利用制限かけたりして、希少性を高めていくことによって、もし企業が成長していくとしたら、資本主義っていうのは、実は私たちの生活を貧しくすることによって発展していく、そういう凄い歪んだシステムだっていうことが、この水の問題からも見えてきて、やっぱり公有財、コモンに戻していったほうが、私たちは実際豊かになる。民営化したほうが効率化も進んで、コストカットも進んで、 イノベーションもして、私たちの 生活便利になると考えるけど、実は、公有化したほうが豊かさが復活するんじゃないか。

 

岸本聡子さん(トランスナショナル研究所)

(コンセッションの)その前にもいろいろな委託というのが既に水道の現場で起こっている。包括委託も含めてかなりの部分を民間企業にお願いしているし、それ自体がすべて悪いわけではない。

コンセッションの問題点は、お金と人とが動く。つまり意思決定が動くということ。 この水道事業をこれからどのように長期的に運営していくか、どのぐらいの投資をして、どういう技術を使って、そういった重要な決定を事業を運営する人が決めていく。

委託だと、今まではそれが公に残って、「この部分とこの部分とこの部分だけ、お願いします」という話だった。そういった意味でかなり根本的な違いがある。

確かに施設の所有権は残るが、そこで働く人たちに知識があって、災害が起きた時に どうするかというようなトレーニングがあって、いろんなことがある。仕事というのはただ単にお金の話ではなくて、コロナ禍でわかったことは、働く人がいてこそということ。このコンセッションというものでは、人とお金と意思決定が丸ごと動いて、私たちの手から離れると思ったほうがいい。

 

斎藤幸平さん(経済思想家)

民営化していくっていうことは、その会社が儲からないというふうに考えたんであればもうサービスを止めてしまう。あるいは今まで毎日だったものを二日に一回にしてしまうとか、そういう形で最終的には、質そのものが大きく下がってしまう可能性がある。

水の質が一回下がってしまったら、働いてる人たちの知識が一度失われてしまったら、なかなか取り戻せないことになってしまう。そういう貴重なものだし、しかも危うい もので、一度崩れたら戻らないものなんだっていうことを、わたしたちは再認識しなくちゃいけない。

特に、これから気候変動が深刻化していく中で、日本の場合はどちらかというと、雨が降らなくなるというより、降るようになってくる。ダムの話とかになると、また水道と感覚が変わったりしちゃうんけど、どういうふうに貯めるのか、放流に関してもホントに人死んだりするので、人命もかかわるし、どういうふうにこの大量の水を管理していくのかとか、そういう本当に命に直結するような問題を、一企業に任せてしまっていいのか? これ本当に任していけないなっていうのを、私たちは福島の原発事故の時に学んだわけです。隠蔽体質とか色々あったわけじゃないですか。

私たちは価格の問題で考えてしまいがちだけど、やっぱり公営でやったほうが、より広い視点から水ってものを管理することができる。 たとえば、水っていうのは誰にとっても利用可能な状態になくてはいけなくて、都市では、公園とかあるいは街中のいろいろなところに無料の蛇口を置いておくってこと。これはホームレスの人達にとっての飲料水になったり、手を洗ったり顔洗ったりって水になったりもする。

そういうものは本来、企業という観点からすればいらないんだけれども、パブリックにしておく、コモンにしておくことで、そういった無料の水へのアクセスというのが街中で担保される。われわれマイボトル持ってても、水を入れるところがあまりないけど、そういうところをどんどん増やしていくと、ペットボトルがなくても暮らしていける。

あとは水源。水っていうのは単に降った雨を溜めておくだけでなく、エリア一体、水が流れ込んでくるところの土壌とかいろんな地域の表面が汚染されていたら、そこで水が溜まるまでに汚染されてしまったら、それを浄化するのにお金がかかって、水道料金が上がってしまったりする。だから、そのエリア全体、水を貯めておく所だけでなく、 その辺り一帯も含めて、持続可能な環境に変えていく必要がある。

そういう投資というのも、やっぱり公共だからこそできる取り組みがある。もしその 辺りで化学肥料とか農薬とかバンバン使ったら、その水が流れていって大変なことになっちゃうわけで、そこであえて持続可能な農業をやって、それを地産地消して、たとえば学校の給食として提供したりという形で、それもまた新しいコモンになっていく。

そういった形で水というものを軸にして、食べ物も繋がってるし、他のものともいろいろ繋がっているので、どんどんコモンの領域を広げていかないと。一個だけ守っても、他のものが駄目になっちゃったら全部駄目になっちゃうんで、もっと守っていくって いう足がかりになるんじゃないか。

 

みずをみんなのものにするには            

           「 Dialogue 水は誰のものか?」より

 

藤原辰史さん(歴史研究者)

水をみんなのものにするという時に、いったい水はどこから来て、どういうふうに流れていくのかっていう、フローの流れがどうなのかってことをやっぱり知らなきゃいけない。

日本って水がものすごく急流で流れているけど、他方で、水が汚染されてきた歴史でもある。たとえば、足尾銅山事件では、栃木の山奥で銅山を経営していて、そこから汚染物質が出て、関東一帯でまさに水が汚染されて、田んぼが汚染された。

それからイタイイタイ病。富山の神通川が汚染されて、カドミウムとして米に入ったり、あるいはその辺りの方が魚を食べているので川が汚染されてその魚に高濃縮され、毒が濃縮されたり。阿賀野川もそうですよね。そういう意味で、水というものは、もっと広いエリアで捉えながら考えていくべき。

 

岸本聡子さん(トランスナショナル研究所

水道供給というと、コンセッションでは上水・下水だけを見てるようになるけど、すべて上流から下流までつながっていて、雨から海までつながっている。

これをどのように広域的に、農業も含めて、水源を守るということも含めて、特に日本ではこれから気候変動で増えていってしまう洪水から命を守るということ、そういう かなり長期的総合的な対策を取らないといけない分野。

これの一部を切り離してしまって、そこだけで利益を上げるとか、一部を切り離してしまうと、公共政策の中で全体的な長期的な計画を立てるということがとても難しくなってしまう。

そもそも水は、行政もすでに分断されているが、むしろ統合していくような流域ということを考えて、持続可能な上流から下流までということ、それから生物多様性を守っていくとか、コンクリートで固めていくダムという今までとは違う次の世紀に向けた治水というものの在り方を考えていくときに、みんながその話し合いに参加して、地域の水に関わっていくということが、自治ということに広がっていく。そこだけ切り離して民営化なんかしないで、むしろつなげていくような作業をしていかないといけない。

 

藤原辰史さん(歴史研究者)

農業史でいくと、水利事業への参加が重要。農村では、水利に参加しない限り、水はゲットできないし、用水路をきれいにしないと入れない。水利組合がずっと農業の灌漑を作り上げてきたことを考えると、水と参加はセットだと歴史的には言える。

 

田代伶奈さん(哲学の人/D事務局)

水をみんなのものにするには、土地への愛着が前提になってるんじゃないか。その地域に川があるとか、意思決定が反映されるようなコミュニティがあるとか。

私は、こういう人多いと思うんだけど、東京にずっと住んでいて、なんか私の物であるっていう場所とか物がない。たとえば自分のものだと思えるような公園とか、広場とかコミュニティが全くない。もちろん地方の方でも、地域コミュニティというものがどんどんなくなっていると思うけど。

「私たちの水なんだから私たちで決定しよう」って言ったときに、「みんなの水だよね」って言ったときの「みんな」っていうのが想像もできないし、頭にも浮かばない。

その時に、コモンズって考え方はすごくしっくりくるし、理論的にはすごくよくわかるんだけど、感覚的に、なかなかコモンズっていうのが入ってこないっていうのが、私の正直な感想。ともに管理するみんなって誰ですか?

 

斎藤幸平さん(経済思想家)

ありとあらゆるものを本来はみんなで管理してきた。土地、水、食べ物をみんなで作って。(資本主義は)そういうのをひたすら分解していって、バラバラにしていった。

市場っていうのは、お金さえ持ってればそれで何でも手に入るわけで、別にしがらみもないし、お金さえあればその土地を捨てて別のところに移ってもいい。本当にある意味気楽なわけ。

他方でその結果として、地域との関わり合いであるとか、自然との関わり合いであるとか、ありとあらゆるもともとあった社会というものが失われている。社会っていうものが市場っていうものによって入れ替わってしまった。

社会というのは、もっともっといろんな多様なつながりあいがあって、その中でみんなで富を管理していたが、それが市場に置き換わっていくと、ただ貨幣と商品だけの関係性ってものに置き変わってしまって、「みんなでもう一回管理しようよ」なんて、想像もできないし、面倒くさそうだなっていうのが必然的に勝ってしまう。この感性をどうやって変えていくかっていうのは難しい。

 

藤原辰史さん(歴史研究者)

コモンズって、基本は争いがあったからっていうのが重要。田植えの時も水がすぐなくなっちゃって、夜いきなり鍬持って、わーって削ったりするのが田舎のほうであった。自分の田んぼに引くために、もう削っちゃうぐらい、水って争いの源。それを防ぐために、みんな半分怒りながら、何とか最悪の事態にならないようにって、生まれてきたのがコモンズの管理だったかも。

 

田代伶奈さん(哲学の人/D事務局)

こうやってみんなで考えることが、結構コモンズの出発点である気もする。

 

斎藤幸平さん(経済思想家)

歴史を学ぶのはすごい大事。今の自分たちの見てるもの以外の所への想像力を広げてくれるのは、すごい大事。別のやり方があるんだって、別のやり方があったし、しかも、それはもしかしたらもっと豊かなものだった、楽しいものだったかもしれないっていうのがわかれば、もう一歩動き出すためになるんじゃないか。

 

岸本聡子さん(トランスナショナル研究所)

一つ一つのピースを見ていくと、食のことも考えなきゃいけない、ゴミのことも考えなきゃいけない、水のことも考えるべきって、なんでこんなに考えなきゃないんだって いうような。でも結局何も変わらないじゃん、参加の仕方もわからないし、どういう形なのかイメージも湧かない。本当にこれが私たちの現代社会だと思う。

新しい政治文化っていうのを作っていかなきゃいけない。私たちの生きづらさだとか、ものすごい時間を貨幣労働のために使っていることとか、クタクタで考える時間も選挙に行く時間もないような現実とか、その不満とか怒りとか、それをぶつける場所もないということとコモンズとすごく関係してると思う。

もしそういうことからもっともっと解放されて、みんなが普通に地域のコミュニティセンターだとか広場だとかに集まって、水のことだけじゃなくていろんなことを話したり、作ったり交換したりするようなことができ始めたら、生きづらさということを解放していくようなそういう流れを作ってことができたら、何かこう元気が出てくるのかな。そこにやっぱり地方自治とか地域の政治というのがすごく重要。

水道がたまたま自然独占で一つの供給者であることが多いので、特に都市部ではそうなのでそうなっているけど、ミュニシパリズムが大切にしていることは、自治とコモンズ。

ミュニシパリズム           

         「 Dialogue 水は誰のものか?」より

コモンズの中には、電力、水道、食、住宅のようなすべての人に必要なものが入ってくる。それをどのように民主的に管理するかということ。そういうことを大切にする政治代表者を選んでいく。公にお任せするって話しではなく、共に管理していく。ただ単に公とか行政ではなくて、自分達から離れたところの利益ではなくて、その地域とそこに住んでる人たちの利益を体現するような協同組合だとか市民グループだとか労働組合とかいろんな人も含めた形の公だと思う。

 

田代伶奈さん(哲学の人/D事務局)

自分の地域の意思決定に参加するとか、その感覚を取り戻さなきゃいけないけど、私が今住んでる地域に関心持てるか、なかなか難しい。それは教育がやるべきなのか、こういう対話の場を開いて皆さんで成熟した社会を作っていくのか、いろんな方法があると思う。

水は誰のものか? この地域のものであって、私たちの ものである。企業のものでもないし、国のものでもないと思う一方で、地球のものであるっていうもっと大きな視点からも語れる。地球市民であるっていう感覚はなぜか私にはすごいあって、 土地は有限だし、水も有限、資源も有限だから、全員で守んなきゃいけない。

どっかだけそれが手に入り安くて、どっかだけがアクセスしにくい状態が不正義であるっていう感覚はすごいある。地球市民として有限な資料をどう管理するか、みんなっていうのを地球全員みたいに広げて考えることもちょっとしてみたい。

 

永井玲衣さん(哲学研究者/D事務局)

ミュニシパリズムは、ただただ政府に任せるんじゃなくって、地域でみんなで合意形成をしていこうっていうこと。非常に重要なんだけど、同時にその難しいさという話も 出た。

こういう運動がなかなか広がらないのは、そもそも話し合いの文化っていうのが非常に欠如しているんじゃないか。人が集まるのは、基本的にリスクがあるから集まるわけで、議論になって対立になりがちだけど、そこでちゃんと話す、ちゃんと一緒になってひとつの物事についてきちんと話す、対話するっていうことは重要。

水の問題も、民営化するのかどうか、どっちか二項対立っていうことにいきなり入っていくんじゃなくて、まずは抽象的な問いから入ってみる。あまり利害対立が起きない 仕方で、水ってそもそも私たちにとってどういうものか、そういった観点から入って、徐々に対話していくってことが必要なんじゃないか。

こうやって話すこと自体も、私はきちんとした参加の仕方だと思う。もちろん、それで満足したらいけないんだけど、話したり考えたり、皆さん YouTube でたくさんコメント書いていただきましたけど、これも本当に参加っていうことなんじゃないかな。

 

斎藤幸平さん(経済思想家)

地球っていうのは私たちにとっての大きなコモン。でもそれを特定の企業のもの、特定の人々のものっていうふうに、どんどん切り刻んで行ってしまったのがこの間の資本主義であって、私たちは日本っていう特に経済大国に生まれて、その恩恵を大きく受けてきた側だったけど、ちょっとそろそろそれにも限界が来ている。

つまり、こうやってそういう生活を続けていると、真水も枯渇してくるし、今回ならパンデミックが起きたし、気候変動という形でスーパー台風とか洪水だとか川の氾濫だとかいろんな問題が起きるようになってきて、そうなってくると、またその時には、弱い立場の人達が切り捨てられていく。

そういうところを見直していこうというのがコモンの基本的なアイディアで、でもいきなり地球っていうわけにもいかないので、身近な水とか食料とかゴミとかそういった問題から一個一個考えて、自分たちで何かそれをもう一回違う形で管理する方法ってないだろうかっていう、これすごいクリエイティブな試みなんですよね。新しい今まではないような形で。だって別に江戸時代に戻りたいわけじゃない。新しくなる楽しいことしたい。

クリエイティブにならなきゃいけないんだけど、クリエイティブになるってすごい難しい。クリエイティブにコモンを管理するのは、たぶんすごい難しいんです。でも何か、そういうようなクリエイティブさがシェアされて広がっていくような社会っていうのは、少なくとも可能だっていうことを、まず私たちが認識するのが、その試みに向けた第一歩になると思う。

 

藤原辰史さん(歴史研究者)

地球市民って、すごいローカル市民とダイレクトにつながってる話だなと思う。 ローカル、ものすごい身近な政治っていうのは、水と食とか、そういう絶対欠かせないものを扱う政治になるから。水も電気も、そういうものは全部地球に直結してる。

 

岸本聡子(トランスナショナル研究所)

コモンズって何だろう? 水は誰のものか? って考えたときに、水だけではなく、 これはみんなのものである。同時に誰のものでもないっていうことなんじゃないか。

誰にも属していないので、それをどのように使っていくのか、管理していくのか、使わせてもらっていくのかということは、地球環境の限界を知って、足るを知るというか、そういう謙虚な気持ちでコモンズを使わせてもらってるというふうに思って、地球市民とローカルと、ちっちゃな変化をつなぎ合わせていくことによってしか、大きな変化は起きないと思った。

斎藤幸平さんの「潤沢な」というのが一つのキーワード。

           

          「 Dialogue 水は誰のものか?」より

知識、知は無限というのは、コモンズでしかできない。 市場とか企業とかは、どちらかというと知を囲い込む。 それに価格を付ける。私たちの知というのは無限で、それを交換とか交流とかすることによって、どんどん広がっていくもので、これが潤沢なという意味なのかなと思う。